シンガポール漂流生活

シンガポール在住歴12年、日本語教えたり、絵描いたりして、なんとなく生きてます。

あまりよく知らない伯父さんの死を考える

先日のある夕方、奥さんと二人で家にいたんですが、突然奥さんの携帯に電話がかかってきました。
もしもし、と普通に電話に出た奥さんですが、急に声色が変わり、広東語で物々しく、ああ!? ええ!? マジでー!? とか言っているので、これはただ事ではないことが起こったなと思いました。
しばらくして電話を切ったので、いつもは人の事など無関心な私も、どうしたの?と聞いてみました。
すると、義理母さんのお兄さんが亡くなったそうなのです。
(私の義理伯父なので以下「伯父さん」)
 
伯父さんは65歳くらいで、シンガポールでバスの運転手をしていて、数年前に義理両親と4人で一緒に住んでいたときに、よく家に遊びに来ていました。
親戚の中で唯一英語がそこそこ話せるので(あとはみんな広東語と中国語しか話せない)私にも、ヤンピン元気かい?などと、いつも一声かけてくれました。いつも笑顔で、とても穏やかな性格の人でした。
 
義理母はマレーシア出身の中華系マレーシア人で、彼女の兄弟のほとんどはマレーシアに住んでいますし、伯父さんの奥さんもマレーシアにいるんで、もう長いこと一人でシンガポールに単身赴任していました。
 
伯父さんはシンガポールでバスの運転手としてずっと真面目に働いていたので、他の兄弟は、もうさっさと退職して隠居しなさいといつも言っていたらしいのですが、当人は、もう少し老後のためにお金を貯めておきたいと言って、働き続けていました。
(シンガポールのバス運転手の給料3,000 SGDは、マレーシア庶民の感覚では100万円に近いはず)
そして、その日は仕事は休みだったらしいのですが、自宅で一人でいるときに心不全を起こし、帰らぬ人となってしまいました。
 

本人ではありません

 

運転手の仕事はストレスが高いらしく、兄弟はみんな伯父さんの身体の事を心配していたのですが、恐れていたことが現実に起こってしまい、兄弟はさぞかし残念だと思います。
実は私の父も、数年前に働きすぎが原因で亡くなった疑いがあるので、なんとなく人ごとだとは思えません。
しかしその経験があるからこそ、無念だったろうにというよりは、自分で決めた道を進んだのだし、結果はどうあれ、これも運命なのだから、ただお疲れ様でした、と思いたいです。
 
伯父さんの遺体はマレーシアの奥さんの家に送られ、私の奥さんと義理両親もお葬式に出席するためにマレーシアに行ってきました。
私はそこまで親しくないので、家で留守番をしていました。残念とは思っても、とくに悲しいという気持ちにはならなかったのですが、弔いの意味で、少し伯父さんについて考えてみました。
 
伯父さんはただの一般人で、人に注目を浴びる仕事をしていたわけでもないし、ニュースに取り上げられるような事をしたわけでもありません。しかしその一生は、本人にとっては波乱に満ちた人生だったんじゃないでしょうか。
幼少期をマレーシアで暮らし、それから結婚をして、シンガポールに渡って職を得て、子供が生まれ、その子を立派に育て上げた(娘さんは数年前に結婚しました)
数えきれない苦労と喜びがあったことでしょう。どれだけ泣いて笑ってケンカしたことか(ド根性ガエル)
 

電気グルーヴの前身にあたる伝説のバンド「人生」
私も一応40数年生きてきましたが、ここまで来るのに本当に色々なことがありました。
経歴が少し独特なので、人よりも経験値が豊富などと勘違いされる事もありますが、私は自分の人生が特別だなんて思ったことはありません。
インドの山奥で盗賊に遭って泣き明かすのも、恋人と別れて泣き明かすのも、傷の深さは同じ。県大会で優勝したときの喜びが、オリンピックで優勝したときの喜びに必ず劣るとは限りません。
 
私は全ての人の人生と命が等しく尊いと思っています。
私の人生も、安倍晋三の人生も、スティーブ・ジョブスの人生も、ある犯罪者の人生も、名もなき百姓の人生も、臆病でずっと現実から逃げ続けて最後は自ら命を絶ってしまったような人の人生も、すべて等しく価値があると。
もしある誰かの人生が、価値のないものだとすれば、自分の人生もそれと等しく価値がないと思います。
 
そして私は自分の人生は意味のあるものだと思いたいので、よく知らない叔父さんの人生も、きっと波乱万丈に満ちた壮大な物語で、その一つの物語がひっそりと幕を閉じたのだと思いました。
 
本当にお疲れ様でした。
私は伯父さんの事はきっとすぐに忘れて、また自分の人生を歩んでいきますよ。
南無阿弥陀仏
 
 

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