シンガポール漂流生活

シンガポール在住歴12年、日本語教えたり、絵描いたりして、なんとなく生きてます。

絶望をもって生きる

あなたは発狂したことがありますか。

 

私はたまにあります。こないだ久しぶりにありましてん。

原因は自分が何者で、この世界はいったい何なのだと考えるとあまりの恐怖でしばらく頭がおかしくなります。

 

 

他の人もこんな事があるのかなと、少し気になりますが、あるかどうか聞くってことはそのときにまたこれを思い出すかもしれないので、まだ聞いたことも言ったこともないです。

でも私の予想ではけっこう多くの人が、私と同じようにときおりこんな事で気が狂いそうになっているはず。だって私もみんなも、だいたい同じような思考回路を持った人間なんだから。

正気でなんていられるなんて運がいいぜYOU と時折思いながらも、その都度うまい具合に忘れて、必死に生きているんでしょう。知っているんですよ。

 

しかしこの間の発狂で、新しく気づいた事が。

この発狂とはすなわち恐怖、そして絶望。どうしようもない極限の恐怖、どうしようもない極限の絶望。

そんなものに打ちひしがれたときに、人間はとても素直で謙虚な人間に戻ってしまうのだなぁと。一時的かもしれませんが、人間的なエゴが抜けて、真っ更な気持ちになれるんだと思います。

 

 

例を挙げると、すごいエゴイストで傲慢だった人が、大病を患って、闘病を続けて、それでも治らずに、自分の死を悟り、家族や友人に、今までごめんな、そしてありがとうなと、素直に告白したりするアレ。

 

殺人を犯した人が、裁判で死刑を宣告されて、独房で自分を見つめなおし、悔い改め、自分が殺めた相手のために、毎日何時間も念仏を唱えたりするアレ。

 

この先近い将来、世界的な大災害が起こってみんな死んでしまうのだと信じ込むと、途端に周りの人にやさしくなったり、平凡な毎日が掛け替えのないものに感じたりしてくるアレ。

 

 

そう、絶望だって悪いことばかりじゃない、というか人間には、魂の進化には、絶望が必要不可欠なのだと思います。悪い習慣や、怠慢な自分を一度リセットするために。

 

順風満帆な人生なんて、きっとないんです。人は自分の人生の中で必ず一度、二度、三度、何度あるのかわかりませんが、ドンドンドンキのどん底まで落ちて、そこから這い上がって来なければいけない、そう運命づけられているんだと思います。

 

人は自分がどれだけ高みにいるかを競いたがるものですが、私は高さよりも、どれだけ登ったのかというのが大切なんだと思います。

ものすごい高いところにいるけど、そこからまだ10mくらいしか登ってない人よりも、ものすごい低いところにいるけれど、もう100mくらい登ったよというのほうが人がすごい。

そういう人を世間は認めるべきだという意味ではなく、それこそが本当に自分が、自分の魂が、人生の中で成し遂げようとしている事だという意味です。

 

まぁなんかよくわかんないですが、こう思うことで、もっと絶望や、不条理や、辛く苦しい事を受け入れやすくなると思います。

 

こういったネガティブな事が人生には必ずあるという前提で考えるところが、暗い、陰気だ、悲観的だ、おまえみたいな湿っぽいやつは海苔に触るな、なんてときおり言われるんですが、世の中には色んな奴がいるという事を私を通して知ってほしい、そういう意味で私はこんな性格をあえて隠さず晒しましょう。

 

でも、私もときどき気が狂いそうになるときがあります、なんて言って近寄って来ないでくださいね。一人だからこそ、この狂気を抑え込めるものの、二人以上になると収拾がつかなくなる恐れがあります。

そういう意味で、人はこの狂気をあえて共有しないように設定されているような気がします。

 

 

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